開業に至った経緯(2)


開業までの道のり
サラリーマン人生の集大成!どんたくへの出場
 福岡のビックイベントといえば博多どんたく港祭り。ゴールデンウイークに開催されるこのお祭りには、毎年 全国から多くの観光客もみえられます。入社当初から先輩の思い出話の一つとしてよく出ていたのが、どんたく出場時のエピソードでした。それによると、「新入社員の時は就業時間中にどんたくの練習で招集されていて、ほとんど仕事らしいことはしてなかった。だけどそれが、文化祭みたいで楽しかった」というもの。その後、経営の厳しさや社員旅行や運動会等をやめていった時流から、参加をやめて13年が経っていました。私は当時の先 輩から聞いたエピソードが頭の片隅に常にあり、いつかは再開できたらと思っていました。統合後で混乱期にある今だからこそ、みんなの気持ちを一つにする「どんたく復活」がもってこいだと直感したのです。
 ただし、このような大きなイベントへの出場を再開するとなれば、当然、会社側の許可・協力が必要不可欠です。また、出場に13年のブランクがあったため、参加方法も含め運営のノウハウを知っている人が不在だったので、一筋縄ではいきませんでした。何はともあれ、多くの方のあたたかな協力のおかげで、13年ぶりのどんたく出場を実現することができ、組合員とその家族の他にも、会長や社長、店長、グループ企業スタッフ、取引先含め、同じ職場で働く仲間やその関係者全員で参加しました。過去も立場も所属も関係なく、みんなが一つになったと思える瞬間であり、地域の方の支えで会社が再生できたことをアピールできた場でもありました。私自身も、この会社に入ってよかったと心から思えました。
 このように充実した日々を送ってはいましたが、実は誰にも相談できず抱えていた問題があり、どこか気持ち が晴れず複雑な心境でした。ここからは今だからこそ言えることであり、今の職業を歩むことを決意させたエピ ソードについてお話ししたいと思います。


光と影
 私がどんたくに出場していた時、同居の父はうつ病で自宅療養中でした。父は柔道6段の腕前で、大学も就職も柔道の推薦で入った筋金入りのスポーツマン。気が短く、怒ると鬼のように恐い形相で大声で怒鳴るカミナリ親父。そんな父がうつ病になったのですから、古くからの友人は皆、「まさか、お前が?」と驚くほど。そして、その驚きは私も例外ではありませんでした。
 父は公安職で夜勤もあったため、生活リズムは不規則にならざるを得ず、50 代になってからは睡眠薬を服用しながら体調をコントロールしていました。それでも、父は強い人という印象だったため、あまり心配はしていませんでした。今思うと、休みの日にテレビを見ているだけなのに、「忙しい、忙しい」と言うのが口癖で、常にイライラし、ブツブツと独り言も多く、暴飲暴食を繰り返していたので、不調のサインは出ていたのだと思います。


重なる変化と適応障害
 50代半ばになると、父は念願だった昇格を果たし、転勤と単身赴任も同時に始まりました。昇進のプレッシャーと、未経験な業務への対応等、父の負担は大きかったと思います。母もそんな父を心配し、週末には必ず単 身赴任先を訪れサポートをしていました。そんな生活が半年ほどたった頃、父はインフルエンザにかかり自宅で1週間ほど療養していました。熱も引き、明日から職場に出勤すると言った日に、母は父を車に乗せ、単身赴任 先まで送り届けることにしました。しかしその道中、母は父の異変を感じ、このまま一人にするのは危険と判断し、自宅に連れて帰ってきたのです。母は、「お父さんの様子がおかしい。鬱かもしれない。だって、急に、神妙 な面持ちで仕事を辞めたいと言い出したのよ。普通じゃないでしょ」というのです。
 翌日、母は父を精神科に連れて行きました。父は、「俺を精神病扱いするのか。ひどい奴だ。」と言って、通院 にかなり抵抗したそうです。結局、心療内科に行き、そこで主治医から『ストレス性障害』と診断され、3か月休職が必要との診断書を書いてもらいました。父は、「自分は鬱じゃない」と言っていましたが、主治医から、「40年間働いたご褒美だと思って、休んではどうですか」と声をかけていただき、やっと休職することを納得した様子でした。
 父は、当時を振り返ってこんなことを言っています。「あの頃は、自分は病気じゃないと思っていた。疲れて果てていたので、主治医の言葉に甘えて、ちょっと休憩させてもらおうと思ってた」と。そして、「自分が病気だ と自覚したのは3か月を経過したころからだった」とも。


鬱は移るってホントだった
 父が自宅療養している時がちょうど私が労働組合の仕事に従事し、どんたく出場のために奔走している時でした。精いっぱい仕事して疲れて帰って来ると、今度は父が待っていたかのように自分の話を聞いてほしいと言って来ていました。
感情コントロールができず、どこでもぽろぽろと涙する父・・・
疑心暗鬼になってなんでもネガティブに捉える父・・・
さっき言ったことすら覚えていない父・・・
子供のように甘え、どこにでもついてきて欲しいとせがむ父・・・
判断力が鈍り、自己決定ができなくなっている父・・・
それは、今まで見たことのない父の姿でした。
 何度も出る大きなため息のせいで家の中の空気は常に重々しく、一緒にいるこっちの方の気持ちが滅入ってしまうため、家に帰るのが嫌でしょうがありませんでした。お互い気持ちの余裕がなくなっていき、喧嘩も多く なっていました。家族全員が、精一杯だったと思います。うつ病を患っている父にもっと優しく、もっと寄り添って話を聞いてあげなきゃいけないと思いつつ、聞きたくないと避けてしまっている自分に罪悪感を感じたりもしていました。1年ほどはこのような状態がずっと続いていたように思います。


病いで人間関係も失う?
 ガンで離婚すると言う話はあまり聞きませんが、精神疾患はそれがあり得る病です。
 うつ病を筆頭に、双極性障害、ギャンブル・アルコール依存症など、精神疾患によって仕事やお金、家庭、人 間関係など失う人が多くいます。うつ病患者の家族として体験し、この病気の大変さを心から実感しました。
現在、父は健康を取り戻し、自分の病気体験を語って各所で回っています。また、キャリア・アカデミー鳥栖 ではピアカウンセラーとして従事し、同じような体験をした人の気持ちに寄り添う支援をしています。

職業リハビリ開始
 父の回復過程を語る上で欠かせないのが母の存在です。母は、看護師でありながら、ハローワークや障害者職 業センター勤務を経て、EAPの事業に携わり、企業内の産業保健スタッフと連携し、その会社で働くメンタル 不調者の復職支援をやってきた職業リハビリの専門家です。
 私の住む地域は、まだまだ復職支援を行うところは少なく、父が通院している病院も、数分の診察と薬をもらって帰ってくることの繰り返しでした。
 母は、父の健康回復のころ合いを見て、療養中心の生活から、リハビリに比重を置いた生活に切り替えていきました。役割の無かった父に、炊事・洗濯などの日課を与え活動量を増やし、その内容と体調について毎日記録 するように指示しました。またほぼ1年間引きこもり状態だったため、社会復帰の一環でフィットネスクラブや 陶芸教室等、外出する用事を徐々に増やしていきました。「精神年齢も退行するから、小学生からやり直しと思って大学卒業までの道筋を作っていくといいのよ」と母は言い、父は本当に専門学校にも入学し、資格も取得しました。60歳を前にし、以前の職場に戻ることは気力・体力ともに難しかったため諦め、新たな仕事に就き、最初はパートタイマーから始めました。病気を卒業するまでのプロセスに約3年かかりましたが、現在も再発することなく元気でやっています。


開業に至った経緯(目次)開業に至った経緯(1)開業に至った経緯(2)開業に至った経緯(3)

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